展示室ガイド

  • はじめに

    伝統文化交流館

    港区立伝統文化交流館

    華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築

    港区立伝統文化交流館の建物は1936(昭和11)年に芝浦花柳界の見番として建設されました。
    木造建築の見番としては都内に現存する最古級のものです。
    見番とは、芸者のいる「置屋」、料理を手配する「料亭・料理屋」、座敷を提供する「待合」から構成された「三業」を取りまとめる三業組合事務所のことです。
    戦後は東京都が港湾労働者の宿泊所の一部として使用し、「協働会館」と呼ばれていましたが、2000(平成12)年3月に老朽化のため閉鎖されました。
    一時は取り壊す計画もありましたが、保存・活用を望む地域の声を受け、港区は利活用に向けた検討を進めました。
    2009(平成21)年4月に、建物が東京都から港区へ無償譲渡されるとともに、同年10月には港区指定有形文化財に指定。
    耐震診断や建物調査の後、約2年にわたる保存修理工事を経て、2020(令和2)年、伝統文化交流館として開館しました。
    かつて芝浦が花街をもつ港町として栄えていたことを中心に、現在の姿になるまでの変遷を、本施設の建築を中心に見ていきましょう。

  • 昔、芝浦は海だった

    昔、芝浦は海だった

    昔、芝浦は海だった

    明治時代、風光明媚な芝浦を臨む本芝に芝浦芸者が誕生

    江戸時代、芝浦は干潟で、現在のJR線路の西側には、芝と呼ばれる漁村がありました。
    また、近くの増上寺や芝神明宮周辺の大歓楽街では、表通りの東海道に沿って最初の宿場町品川まで盛り場が続き、旅人や遊客でにぎわっていました。
    1872(明治5)年、鉄道が新橋‐横浜間で開業すると、発着地である新橋に近く、風光明媚な芝浦を臨む芝のまちは、海水浴場や潮干狩りなどの行楽地としてさらににぎわい、温泉旅館や料亭、茶店が軒を連ねるようになります。
    これらの料亭において、芸者が必要な時は芝神明の花柳界から呼んでいましたが、それでは間に合わず、1902(明治35)年本芝に置屋「松崎」が営業を開始しました。
    当時の芝浦は物見遊山の客でにぎわっていたこともあり、これをきっかけに次々と置屋が開業し、「芝浦芸者」が生まれ、花街が形成されていきました。

  • 芝浦の地に花街誕生

    2. 芝浦の地に花街誕生

    芝浦の地に花街誕生

    大正時代、芝浦が埋め立てられ本芝の花街が芝浦の地に移転

    1912(明治45)年、隅田川口改良工事が始まり、東京湾の埋め立て拡張が進み、1920(大正9)年、芝浦海面埋立地が完成しました。
    一方で、東京湾の埋め立て 工事が進むにつれ、海の眺望を失った当初の芝浦花街の客足は減少しました。
    埋め立て た芝浦の土地開発の一助としてという意味合いもあり、1920(大正9)年に南浜町(現在の芝浦一丁目)に三業の許可地を指定され、移転。線路を挟んだ東西に分かれて営業されるようになります。
    この埋め立て地には、株式会社芝浦製作所(現在の株式会社東芝)、東京瓦斯株式会社(現在の東京ガス株式会社)、梁瀬自動車株式会社(現在の株式会社ヤナセ )をはじめとする生産業も移転してきました。
    関東大震災をきっかけに、他の花街から避難してくる業者が増え、徐々に芝浦花街はにぎわいを見せ、活気を取り戻します。

  • 芝浦花柳界に
    自前の見番建つ

    3. 芝浦花柳界に自前の見番建つ

    芝浦花柳界に自前の見番建つ

    まちのにぎわいを象徴する優れた意匠の見番建築

    本建築は、芝浦の見番として1935(昭和10)年9月に着工、1936(昭和11)年6月に完成しました。
    資金は当時の芝浦三業組合長であった細川力蔵氏がそのほとんどを出資し、三業組合に寄付したものと言われています。
    芝浦の見番はそれまで他の建物を間借りし、何度も移転していました。
    細川氏は、三業組合として独自の建物を持ち、さらに芝浦花柳界を盛り立てたいという思いがあり、豪華で大きな見番を建てたと言います。
    見番は三業組合の事務所兼稽古場であるため、直接、客が訪れる場所ではありませんが、旦那衆が集まって使うこともあり、開かれた場でもありました。
    本建築は、優れた意匠と高い技術により建築された建物であるとともに、見番建築特有の空間構成を体現したものとなっています。

  • 港湾労働者用宿泊所
    「協働会館」

    「協働会館」の誕生

    「協働会館」の誕生

    建物を港湾労働者の宿泊所に転用

    戦争が激しくなり本土への空襲が始まると、芝浦の一部も強制疎開の範囲となりました。
    花柳界も疎開し、廃業する置屋や待合などもありました。
    戦後、芝浦の花街は復活しますが、三業組合は別の建物を事務所として営業を再開させます。
    三業組合の事務所であったこの見番建築は、幸運にも周辺一帯の待合や料亭の建物とともに空襲の被害から免れました。
    しかし、戦時中に東京都が、これらの建物群を買収しており、6棟が港湾労働者第二宿泊所として転用されました。
    本建物は、初代の管理人によって「協働会館」と名付けられ、1階は宿泊所と事務室兼管理人住居、2階の大広間は地域住民の集会や伝統芸能の稽古・発表の場として利用されるようになります。
    一方で、芝浦三業組合は1963(昭和38)年に解散し、芝浦花柳界は消滅しました。

  • 見番建築を利活用する

    5. 港区指定有形文化財への登録

    港区指定有形文化財として指定

    保存と利活用に向けた改修

    本建物は、平成に入っても港湾労働者の宿泊所として使われていましたが、老朽化が進むにつれ、解体が検討され始めました。
    2000(平成12)年3月に閉鎖されましたが、1997(平成9)年に建物に魅了された有志により発足した「芝浦・協働会館を活かす会」を中心とした保存活動が続けられ、2006(平成18)年には地域の代表らによって提出された「協働会館(旧芝浦見番)の現地保存と利活用に関する請願」が港区議会により採択されます。
    それを受けて区では建物の保存を決め、2009(平成21)年に指定有形文化財に指定し、区民が利用できる施設として整備することとしました。
    その後、整備計画策定から約5年に及ぶ年月を経た2019(令和元)年12月に保存修理工事を終え、竣工を迎えました。
    本建築は80年の間に、部屋の間取りを変更するなど、用途に合わせて何度か改築されていました。
    区では、具体的な変遷をたどるため、保存修理工事とともに痕跡調査などの歴史調査も実施しました。

  • 伝統文化交流館の誕生

    港区立伝統文化交流館へ

    港区立伝統文化交流館へ

    地域の人々が集い、伝統や文化を発信する新たな拠点施設

    芝浦地域の埋め立てが完了して約100年が経過しました。
    かつて海が眺められる風光明媚な場所だった芝浦は、港として発展するとともに、華やかな花柳界と、工場や倉庫などの港湾施設が共存するまちとなりました。
    そして現在、それらの面影もわずかとなり、マンションやオフィスビル群が林立するまちとなり、大きく姿を変えました。
    本建物は1936(昭和11)年に見番として建てられましたが、東京港の発展とともに、港湾労働者の宿泊所となりました。
    まちの変化に合わせて用途が変えられてきた本建築は、この地がかつて港町として栄え、花柳界としてにぎわっていたという歴史を今に伝える貴重な文化財であるとともに、地域住民に長年親しまれてきた地域の宝です。
    伝統文化交流館は、見番建築および協働会館の歴史を継承し、伝統文化の発信と地域交流の拠点施設として、まちに新たなにぎわいを創り出していきます。

  • 芝浦と運河

    芝浦と運河

    芝浦と運河

    水辺を活かしたまちづくり

    かつて風光明媚な海岸リゾートとしてにぎわいを見せた芝浦。
    明治以降の埋め立てとともに運河が作られ、荷物運搬用の水路として重要な役割を果たしました。
    現在では、物流として使われることは少なくなりましたが、豊かな水辺空間を身近に感じることができ、まちの特色となっています。
    また、運河に架けられている南浜橋、汐彩橋、新芝橋など多数の橋は、まちの景観を構成する特徴となっています。
    近年のウォーターフロント開発により高層マンションやオフィスビルが多数建設され、まち の姿はさらに大きく変容しました。
    その一方で、漁船や屋形船が浮かぶなど、昔ながらの風景を見ることができるのも、このまちの魅力です。
    水辺を親しみのある空間として活用するため、遊歩道の整備、水質浄化の促進、水上タクシーの運行など、様々な取組が進められています。

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